雅子さま曾祖父に、戸籍を乗っ取った“なりすまし疑惑”「あちらの小和田さんは知らない…」と本家が告白した真相


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小和田家先祖の戸籍

国民から絶大な人気を誇る令和皇室。共同通信の世論調査(2020年4月25日発表)などでは、天皇陛下の支持率は75%に、女性天皇(愛子さまの即位)の支持率は85%に上ったという。これも皇族方の素晴らしい行いや慈悲・慈愛に満ちた行いの賜物だろう。とりわけ今月24日に学習院大学に初登校された愛子さまの、高貴な気品と、堂々たる立ち居振る舞いには感動した。

この一方で皇室タブーという言葉がある。皇室は厚いベールに包まれた神秘の場所であり、天皇陛下や皇族方の“人となり”は間接的にしか国民は知りえない。また天皇は日本国の象徴であり、皇室は日本人にとって象徴的なご一家だ。そのため高い注目と尊崇の念が向けられるとともに、それに反比例して、時として仰天するような「噂」(ゴシップ)が流れることもある。

今回はその仰天すべきゴシップの一つ、「雅子さまの先祖は士族・小和田家の戸籍を買って、小和田家になりすました」の真相を解明していきたい。疑惑の発端はご成婚時にテレビのインタビューに答えた新潟県村上市(雅子さま先祖の居住地)在住の小和田家当主の次の一言だった。

あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳。こちらでもいろいろ調べてみたが、分からない。知らない人です。何かの間違いでは?

(ご成婚時の小和田本家当主インタビュー)

本家が「知らない」と言っているため、素性不詳の小和田金吉(雅子さま曽祖父)が士族・小和田家の戸籍を買って、なりすましたという疑惑を補強する形になってしまっているのだ。

親戚が皇太子妃になられたのに、それを「知らない」という本家。当時インタビューをテレビで見た人物はTwitter上でこうつぶやく。

「小和田家」は新潟県に10件

このように本家がはっきり「知らない」と言っているため、家系図やその他資料を提示しても、疑惑を信じる側からは「本家が知らないと言っているじゃないか」と反論されるのがオチである。

「本家が知らないということは、他人が戸籍を乗っ取ったのでは?」は確かに一理ある。新潟の田舎で本家が分家を知らないなどありえないからだ。しかも鈴木や佐藤ではなく、珍しい「小和田姓」である。小和田家は新潟県に多くて10件だそうである。

『新潟県姓氏総覧』によると、当時の新潟県内における小和田姓の分布状況は「おわだ」が下越(村上市など)に五件、中越に二件

(中略)

通説では、この新潟県内の「おわだ」と読む家のうち、村上市在住の数件(軒)が雅子妃殿下と同じく村上藩士の子孫で、雅子妃殿下の実家の遠い親戚であるとされている。

川口素生『小和田家の歴史』新人物往来社

村上市に5件しかない小和田家のうち、親戚と言ったらほんの2,3軒だろう。

これで「本家が知らない」は確かにありえないだろう。

愛子さまと雅子さまの美しい親子愛は国民を常に感動させ続けている。

本家が知らなくても分家は知っている!?

しかし、ここで興味深い話がある。ご成婚時に出版された『小和田家の歴史』によると、なんと、小和田本家が件のテレビインタビューを受ける6年前に、村上市在住の小和田家の分家・小和田豊春氏と雅子さまの祖父・毅夫氏、父・恒氏は会ったことがあるというのだ。

昭和62年11月、小和田家の毅夫氏・静さん夫妻、次男の恒氏・優美子さん夫妻が村上に帰郷した。毅夫氏ら一行は遠縁にあたる小和田豊春氏・昭三氏兄弟のもとを訪ね、お互いの先祖について語り合った。

(中略)

ルーツが同じである点に感銘した恒氏は外務省の名刺の裏に自宅の連絡先をペンで書入れ、「上京された際には遊びに来てください」と豊春氏・昭三氏兄弟に語り掛けたという。

(中略)

平成5年に皇太子殿下と雅子妃殿下のご婚約が皇室会議で正式決定された日、昭三氏は恒氏に祝電を送っている。

工藤美代子『皇后の真実』

奇妙だ…なにしろ、これは本家が「あちらの小和田は知らない」という前の出来事である。

小和田家本家当主が「いろいろ調べてみた」のなら、分家の小和田豊春氏には確認するはずだ。確認された豊春氏は「小和田恒さんを知っている」と言っただろう。田舎では珍しい「外務省官房長」と書かれた名刺までもらっていて、さらに婚約時には祝電まで送っているんだから。

謎は深まる…

小和田本家側は豊春氏にも確認したが、それを信じなかったのか、それとも最初から豊春氏には確認しなかったのか。同じ村上市に住んでいる分家に確認しなかったとは考え難い。

あり得るなら「信じなかった」のか、しかし、「小和田姓の皇太子妃誕生!」という慶事で、豊春氏が「小和田恒さんを知っている」と言うのをあえて「信じない」というのも合理的ではない。

図にするとこうだ。

(『小和田家の歴史』、『遥かなる村上藩』、日本氏族大鑑(website)を基に筆者作成)

謎は深まるばかりである。

小和田家は3つあった!!

そんな中、ある資料を発見した。『村上城下絵図』、幕末の村上の城下町の古地図である。村上城を囲むように藩士らの屋敷が掲載される中に雅子さまのご先祖の「小和田兵五郎」の名が見える。今まで、「小和田兵五郎」しか目に留めなかったが、さらによく見てみると、別に2つの小和田姓もあることに気づいた。

小和田兵五郎、小和田皆蔵、そして小和田郡治。幕末には3つの小和田家が村上藩に仕えていたのだ。

…とすると、ある論理にだどりつく。前提を疑ってみる必要がある。

テレビのインタビューに答えた「小和田家の当主」は本当に「小和田家の当主」だったのか?

「小和田家の当主」は小和田家の当主じゃない!?

幕末には3つの小和田家、すなわち小和田兵五郎家小和田皆蔵家小和田郡治家があった。つまり、先に示した家系図(兵五郎家、皆蔵家)の他に、別流の小和田家(郡治家)があったということになる。

とすると、

  1. 小和田本家が雅子さまの実家を「知らない」と言った
  2. 雅子さまのご先祖が士族・小和田家の戸籍を買って、戸籍を乗っ取ったから

と、今まではこのように噂されていたが、真相は、

  1. 小和田本家が雅子さまの実家を「知らない」と言った
  2. なぜならその小和田本家は、雅子さまの先祖とは別の小和田本家だったから

と、こういう可能性が濃厚である。 上記の家系図を改めると以下のようになるだろう。

「小和田郡治家」を加筆

いかがだろう?

村上市に「小和田本家」は2つあり、テレビのインタビューは別の「小和田本家」と間違えてしまった。皇太子ご成婚報道の荒波の中、再検証する間も無く、「本家が知らない」の話に尾ひれがついて、最終的に「戸籍を買って、小和田家を乗っ取った」という噂が形成されてしまったのだろう。

すべての疑問点を解決すると、そのような結論に行きつくのだ。

真実は一つ

よって次のようにまとめられるだろう。

雅子さま曾祖父が戸籍を乗っ取り“なりすました”などという疑惑は、根も葉もない事実無根の言いがかりということだ。

真実は一つだが、現実は社会的に構築される。時に、無数の現実から一本の糸を辿るように真実に行きつくことができる。

筆者はインターネット上に無数に蔓延る「小和田家の先祖の疑惑」について、今後とも調査を継続していくつもりである。読者の皆様からの情報提供も遠慮せず、どしどし送ってほしい(筆者Twitterかメールtakero.m@hotmail.comに)。

令和になり見事復活された雅子さま。そのまばゆい美貌は一層光り輝く。

4件のコメント

如何にもいかにも、如何わしい噂を撒き散らすための噂の大元を作成する宮本某。

この前にでた記事、川島本家で 紀子サマ入内を祝う会を催した際、出席者ほとんどが「川島紀子」を知らなかったという事実。
川島辰彦氏は、実は紀州非差別部落出身(その時の姓は「杉本」と記憶しているが…)若い時にこの川島家に養子に入り、川島家は名家であったが故にいろいろな恩恵があった…というもの。

東大研究室に潜り込ませたものの、元来 女癖の悪い辰彦氏は「研究対象」の女性に次々と手を出し、終には研究室を追い出される始末に。
辰彦氏は、群馬県舘林の風俗店にも出入りしていて、北朝鮮から逃亡して風俗嬢として働いていたカズヨさんとそこで知り合った。
もちろん、この女性は「日本人」の戸籍を持たない。

少し飛ばして、川島本家の「お力」でコネの効く学習院大学の非常勤講師兼お馬番として、勤務する事になった。もちろん、所得は低い。
で、大学構内にある低賃金職員用の官舎に入居した川島家。紀子サマ小学四年生の頃の話。職員特別待遇で授業料半額て無試験で紀子サマとその弟は 晴れて「学習院」に通うことになった。

その当時は、静岡市馬渕2丁目に住んでいた頃の杉本家(川島家)の事情を知る人からの投稿も多々あった。「玉手箱」「論談ネット」というサイトだった。

紀子サマ入内後、直ぐにそのサイトは閉鎖に追い込まれた。

その紀子サマ入内前には、様々な裏工作があったようだ。先ず、宮内庁は「礼宮の婚約者が、お馬番では…」と、辰彦氏は「常勤講師」「大学助教授」をすっ飛ばし「大学教授」に。
それから、宮内庁からの提案で「『川島』姓では 出自が怪しまれるので『川嶋』に…」と。
だから、紀子サマの高校卒業アルバムには「川島紀子」に載っている。卒業生全てが持っている卒業アルバムまでは、さすがの宮内庁も手が出せなかった。

それから、野中広務氏を連れての宮内庁への恐喝……これも今では 噂・伝説のように扱われているが、20年前の江森敬二氏出版の『秋篠宮さま』には書かれている事実。
解放同盟を引き連れての宮内庁恐喝は一度ではなかった。また、報道規制や紀子サマお妃教育の削減(理解する力が無い‼️)にまで、解同は動いた。

その上、タチの悪い辰彦氏は雅子さま入内決定前には何度も宮内庁に足を運び、恐喝を恐喝したというのだ。
「公害問題チッソの孫を皇室に入れてはならん❗️」

まだまだ書き足らないが……

「雅子さまの先祖は士族・小和田家の戸籍を買って、小和田家になりすました」は、明らかに宮本某の捏造。
しかも、秋信者サイトにまで拡散させている…というか、秋信者サイトそのものが「そのため」に作られたのだ。

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ノーパン、ノーブラ、スケスケキチコは帰国子女でドイツ語も!母から受け継ぐローストビーフが何だって!嘘ばっかりのかわしま家!

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その当時の投稿をコピーしています
   ↓ ↓ ↓
◀ニコニコしてフレンドリーなお爺ちゃんだったね
どんなお孫さんですか?
という問いかけに⌈とにかく気が強い!」と答えていたような記憶がある。
バラック小屋が全国ネットでバレたから、取り壊して近所の中古一戸建てに引っ越しさせてもらったみたいよ。
消されたわけでは無いと思うけど、以来表に出なくなったわね。
お婆ちゃんはスーパーのレジをしてたっけ▶

◀紀子さまの母親は静岡駅南在日朝鮮人部落のご出身。
母方の祖父は朝鮮人部落の按摩。
紀子さまの父親は紀州被差別部落民。
紀子の母方は満州に寄生していた朝鮮族だという
戦後のどさくさに紛れて日本に不法潜入し、静岡に住み着いた▶

◀紀子さんの生まれた場所は静岡市内の、とある寂れた一角で、廃材を拾ってきては増築を繰り返したようなバラック住宅でした。
信子さまが「納屋のような所」と形容されたほどにみすぼらしい家というか、家畜小屋のような生家。

川島家が結婚に際して公表した写真にも、そのバラックの前で、祖母に抱かれる紀子さんの写真がありました。

結婚が内定するや、マスコミ発表前に、お金がない按摩の祖父に代わって、なんと自衛隊がバラックの外装だけを見違えるようにリフォームしてくれた有名な話があります。▶

◀キコが、婚約内定した後、カワタツが大声で、 「皆さん娘が皇室にお嫁に行きますから、ご寄付をお願いしま~す❗」とか何とか ご近所に向けて叫んでいるのが、テレビ放送で流されました。
その時は、お爺様のバラック 玄関インタビュー同様驚きで、耳を疑い目が点になりました▶

◀紀子の生まれた母方杉本家のバラックがあった地区は「馬淵」という場所なのですが、大昔は安倍川の氾濫原だった地区なので「眞淵」と書いたのでした。

静岡市駿河区馬淵三丁目にあった母の実家杉本邸のことで、公表写真を見てもすぐにわかりますが、あまりにもみすぼらしいので婚約発表直前に自衛隊が国費で外観だけを見違えるようにリフォームしてくれたことで有名になりました▶

他にも有りましたが、コピーしているのはこれだけです。

静岡県公務の時に「帰れコール」があったのは、当然ですね。
出自を隠蔽するなんて、そこに一緒に住んでいた人達を┅無き者┅にする事ですもの。

ましてや、川島家の家系図を金で買い、雅子さまの家柄に付いてのデマまで流布したんですから❗️

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3年程前の「菊のカーテン」か「理非曲直」「是々非々自録」からです

❮❮川島紀子を知る人は文仁紀子の婚約を聞き、
「えっ!あの礼女(アヤメ)と?」と驚いたという。
皇族専用(文仁専用)コールガール。とまで揶揄された下品で卑しい女との婚約を嘆いていた人は多い。❯❯

❮❮川島辰彦氏の出身地である和歌山の菩提寺も 紀子の母親の菩提寺の有る静岡同様 放火されている。
その菩提寺は和歌山の赤線地帯の側にあって、無縁仏を埋葬する場所。(週刊誌にはその寺名も記載されていた)❯❯

過去帳を消すために、菩提寺そのものを放火して「消した」ようです。

❮❮学習院の名物教授だった篠沢教授。クイズダービーにも出ていた人。

篠沢教授は テレビで
「川島の野郎、昔は女作って女房泣かせてたのに海外から戻ったらシレっとジェントルマンのふりしやがって!」と。

川嶋教授や紀子様の事を「大したことない」と言い放った篠沢教授は、奥さんひき逃げされて、犯人見つからず。

急遽路線変更したそうです。

川辰氏に批判的だったけど、奥さんが車で轢き逃げ?されそうになってから 怖くなって批判しなくなった。否定から肯定へ。
「素晴らしいお嬢様」だと。❯❯

恐ろしいこと❗️

❮❮川島紀子……花嫁道具は段ボール1箱、納采の儀の振袖と母親の着物も宮内庁持ち(着物を持っていなかったらしい)。

納采の儀は台所の破れた壁紙の前で行われた、弟とピアノに座り撮影した家族写真では紀子さんのロングスカートが破れている、
婚約内定の際に 祖父は肌着にステテコ姿でインタビューに応じた。❯❯

これらは、ネットに写真と共に公開されました。

川島家は「0円婚」が自慢だったようで、2000円の手袋1枚さえ領収書を添えて宮内庁に「立替金請求」したと記事になりました。

また、準備金200万円(当時)で、弟:舟さんが 赤いスポーツカー(日産フェアレディZ)を購入したのも ニュースになりました。

今では そういう報道はさせないようなので、まだ過去の方が「報道の自由」があったのかもしれません(-“”-;)コワイコワイ。

ここに書かれている事が、篠原常一郎氏に届いて 真偽確認されるといいですね。

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