眞子さま「無敵ピンク」で終戦記念日 なぜ宮内庁は秋篠宮家について触れないのか


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終戦記念日の赤坂御用地

天皇皇后両陛下は15日、全国戦没者追悼式に参列し、正午に黙祷された。宮内庁の発表によれば、同時刻、上皇陛下と美智子さまは仙洞仮御所(高輪皇族邸、港区)にて、愛子さまは赤坂御所(千代田区)にて黙祷されたという。一方、秋篠宮家の終戦記念日の動向について、宮内庁は発表しなかった。なぜか? 実は当日、親子喧嘩があったからであるという。

「眞子さまは7月30日の『明治天皇例祭の儀』に欠席されましたが、その理由の一つには、眞子さまが髪を染められたことにあります。眞子さまが『無敵ピンク』という髪色にされまして…。もちろん派手なピンクではなく、ニュアンスとしてのピンク色だったのですが、紀子さまとしては『まだ皇族である以上、髪の色は黒以外にはあり得ない』というお考えをお持ちのようで、眞子さまを何度もご注意なさっていました。

ですが眞子さまが髪色を黒に戻さず、8月15日も髪色はニュアンスとしてのピンク色のままでした。そのため紀子さまが黙祷への参加を拒絶され、眞子さまは自室に戻られました。もちろん自室で黙祷されたと聞き及んでいますが…。こういった経緯があるため宮内庁として“秋篠宮家の黙祷”を発表できなかったのです」(秋篠宮家関係者)

確かに皇族方は、プライベートで髪色を茶色にすることはあっても、派手な色にすることはほとんどない。佳子さまも大学生時代、髪色を明るくされたことはあったが、公務に出られることは黒色に戻していた。眞子さまの髪色は「ニュアンス」としてのピンク色だったようだが、紀子さまとして『戦没者の慰霊にはふさわしくない』と判断したようだ。

髪を明るく染められた佳子さま

「無敵ピンク」の意味は?

ところで眞子さまが髪色に「無敵ピンク」を選ばれた理由は何だろうか?

「落ち込みやすい季節柄、気持ちを上げたかったのではないでしょうか? ピンクという色を選んだ理由につきましては、玉城ティナさんが出演されたパルティのCMで『無敵ピンク』という商品が出てきて気に入られたようです(別の秋篠宮家関係者)

また心理学に詳しい福田実奈さん(北海道医療大学助教)は次のように言う。

「ピンクという色は華やかなイメージがあり、眞子さまがこれを選ばれた理由は、コロナ禍などで外出自粛が続く中、すこしでも元気を出したいという気持ちの表れでしょう」(福田実奈さん)

この一方、元宮内庁職員の小内誠一さんは、次のように推測する。

「『無敵ピンク』という商品名を選んだからには、『もう私は無敵、圭くんと結婚するの!』という眞子さまの固い決意の表れではないでしょうか? ここのところ眞子さまのお姿を拝することができず、国民の心配も積もるばかりだと思います。髪の色など小さなことですから、元気いっぱいの眞子さまのお姿が見れる日を楽しみにしています」(小内誠一さん)

2件のコメント

秋篠宮様の宮号は、和歌の歌枕として有名な奈良市の 秋篠(あきしの)に由来する。

かつての親王任国である関東の令制国名(上総国 ,上野国 )を由来とした “上総宮(かずさのみや)と“上野宮(こうずけのみや)” などが挙がっていたともいわれている。

この3つの中でご本人様がちゃんと読めたのが、秋篠宮だった。

ちなみに、上総国は今の千葉で、安Z氏のご先祖(漁師)の地で 上野国は今の群馬で母上さまの元の実家(醤油屋)があったところ。

秋篠寺というお寺は、皇統簒奪したために国が荒れたと言われて その怨霊をおさめるために建立された奈良のお寺が由来 建立したのは桓武天皇 平安時代の天皇が自分の皇后と皇太子を廃して地方に流し、二人は怪死した その後天皇は二人の怨霊に悩まされ新たに立てた皇太子も病に倒れた それを鎮めるために建てたと言われているいわく付きのお寺

宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により天武天皇の男系が断絶した。
藤原百川は左大臣・藤原永手らとともに天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を即位させ、天智天皇皇孫の井上内親王を母とする他戸親王が皇太子に立てられた。
しかし 宝亀3年(772年)、皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑により廃后され、連座する形で親王もまた廃太子された。
宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。
一連の事件は、他戸親王に代わって皇太子に立てられた山部親王(のちの桓武天皇)と藤原百川、藤原蔵下麻呂ら藤原式家の陰謀によると言われ、暗殺説も根強い。

宝亀6年(775年)、即位に関わった藤原蔵下麻呂が42歳で没する。
さらに翌年にも天変地異が相次ぎ、怨霊を恐れた天皇は秋篠寺建立の勅願を発することとなった。 (日照り、飢饉、異常な風雨、落雷、地震が続いた。宝亀7年5月、朝廷は「大祓」を余儀なくされたが、それでも天変地異は衰えず9月26日には、「瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ち降り積もってくる」という不思議な現象が起こり、二十日余りも続いた。人々は、讒言による死で廃后・廃太子は怨霊となられたのだと恐れ慄き、廃后は龍になって祟っているのだ、という噂まで立った。)

東宮=春宮には決してなれぬ 対極の秋を当てたと解説されてた (秋篠寺は奈良の西にある)

敬宮さまの読書鳴弦で推古天皇の箇所が読まれたことって、すごく大きな意味がある。
読書鳴弦の儀とは 宮中で皇子誕生後7日の間、御湯殿の儀式の際に湯殿の外で漢籍の前途奉祝の文を読み、弓の弦を引き鳴らす儀式。
ちなみに、今上陛下と紀宮清子内親王のこの儀式の動画は残っている。

礼宮さまのは、なぜか無い。
正しくは、お生まれになったところからこの儀式までを収めている動画の中に 礼宮様の読書鳴弦の儀の様子は入っていない。

礼宮のお印の栂 昭和天皇は植物に詳しかったので そのものズバリの栂。

しかも、秋篠宮家の家紋は菊栂、菊の御紋の周りを百足が蠢いてるような 気持ちが悪い印象を受ける。

因みに、常陸の宮家、三笠の宮家、高円宮家共に大変高尚に描かれている。

紀子さんのお印、桧扇菖蒲も高山の湿地帯に自生、花の湿原とも言われている。

秋篠宮家は昭和天皇崩御後の平成2年に創設されたが 秋篠宮の宮号といい、紀子さんのお印、桧扇菖蒲といい、当時の関係者の人は 全て知った上で選び抜かれたと思う。
栂の通り、災いが次々と襲って来ている。

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2020年1月5日号「週刊女性」の記事の1部

┅週末には神奈川県の横浜や鎌倉や葉山、埼玉の長瀞などにお忍びデートを重ね、愛を育まれたそう。
デート中は手をつないだり肩を組んだりラブラブで、ふたりきりの世界に入っている様子でした」(眞子さまの知人)

週刊女性が’16年10月に初の“熱愛ツーショット”をキャッチした際も、横浜デート終わりの電車内で
「マーちゃんのケータイも見せてよ」と小室さんが眞子さまのスマホをのぞき込むと「ブサイクだからやだぁ~」
と嫌がりながらも、その表情はどこにでもいる恋する乙女。
おそろいのリングとブレスレットを身につけ、眞子さまの髪の毛やおでこにボディタッチを繰り返すほど“アツアツ”だった。

おふたりの“愛の熱量”は大学卒業後も変わらなかった。
「小室さんは新卒で『三菱東京UFJ銀行』に入行してから数か月間、寮に住み込みながら研修を受けていました。

同期と共同生活を送るのですが、小室さんには毎朝、彼女からモーニングコールがかかってきていたんです。
研修後も変わらず、毎朝の電話は日課になっていました。」

「眞子さまとの交際が始まった際、小室さんは使っていたメールアドレスを“眞子さまへの呼び名”と、ふたりの誕生日である10月5日と10月23日を組み合わせた文字列に変更したのです。

現在もそのアドレスを使用しているようで、眞子さまとしては彼からの愛情を常に感じていることでしょう。8年という交際期間を考えても“彼以外とは結婚できない!”と、こだわっていらっしゃるのではないでしょうか」┅

眞子さんにとっては、「終戦」とか、「皇族としての品格」とか…関係ないんだね。

生まれた時から皇族特権や周囲からの忖度で、見事なまでにこの仕上がり。

秋篠家が皇族として存在している事も不思議だが、不祥事・不正・皇族特権濫用でやりたい放題の秋篠家を大好きで擁護しまくる秋信者┄理解出来ない。

小室母子って、秋篠家を操り 宮内庁や政界財界までも操縦してるんだろうか⁉️

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