雅子さま、香淳皇后の“遺志”を継ぐ!「美智子さま」からの脱却へ


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香淳皇后の例祭日

12月9日、皇后雅子さまがお誕生日を迎えられる。東宮妃時代はそのご健康状態が懸念されてきた雅子さまだが、御代替わり後は宮中祭祀を始め、ご公務にも本格的に復帰。輝く笑顔は国民を魅了し続けている。

去る6月16日、香淳皇后の20回目の命日を迎えた皇室。この日は例祭日となっており、皇居・宮中三殿の皇霊殿と墓所の武蔵野東陵で二十年式年祭が行われた。

「長らく雅子さまは香淳皇后の例祭にご出席されていませんでした。しかし今年は皇居からの上皇ご夫妻のお引っ越しも済み、本格的な令和の時代の皇后として歩まれ始める1年となっていました。二十年式年祭の儀に雅子さまが復帰された意義は深く、国民の間にも慶びが広がったのです」(皇室ジャーナリストの佐藤公子氏)

香淳皇后の例祭に復帰された雅子さま。美しく気品あふれる皇后は国民の癒やしとなっている

香淳皇后の遍歴

香淳皇后は昭和天皇のお后で上皇陛下のご母堂、今上陛下の祖母に当たる。1903年(明治36年)3月6日にお生まれになり、2000年(平成12年)6月16日に崩御された。

昭和天皇が神話時代を除く歴代天皇の中で最長在位・最長寿であったのと同じく、香淳皇后も最長在位(62年14日間)で最長寿(満97歳没)、明治、昭和、平成と激動の中を誰よりも深く見つめてきた日本女性である。

「香淳皇后は明治36年、東京府麻布区鳥居坂(現・東京都港区六本木)の久邇宮邸で誕生されました。久邇宮家の初代・朝彦親王(あさひこしんのう)は伏見宮邦家親王の四男で、明治8年より久邇宮の称号を得て宮家が設立され、香淳皇后は二代目当主・久邇宮邦彦王(くによしおう)の長女としてお生まれになりました。

学習院女学部幼稚園、小学科、中学科と学ばれますも、大正7年1月17日、14歳の時に皇太子妃に内定し、20歳で昭和天皇のもとに嫁がれました。戦後、美智子さま、雅子さまと民間からの入内が続き、時代の流れから見ますと、“宮家から皇室に入る最後の皇太子妃”となるでしょう」(前出の佐藤氏)

美智子さまの教育に腐心された香淳皇后

さて、宮家出身であり「皇族の婚嫁は同族又は勅旨に由り特に認許せられたる華族に限る」とある旧皇室典範下でお育ちになった香淳皇后にとって、美智子さまの入内は想像を超える戸惑いを抱える事態であったという。特に、その主張の激しさには苦労も多かったようだ。

「長らく、香淳皇后は美智子さまとの折り合いに苦労されたようです。民間出身者である美智子さまを“見下していた”といった表現がされがちですが、事実は真逆だったとか。旧態依然とした価値観を持つ周囲の反発からお守りし、時には厳しく諌め、立派な皇后としてお育てになろうと腐心されていた面が大きかったようです」(小内誠一氏)

しかし一方では、御婚儀のとき美智子さんが使うはずの着替え室を、「今度、美智子も使うから…」 と、ご自身でかいがいしく片付けられたりもした。そして婚約の挨拶に訪れた美智子さんに帯や反物を贈られ、新年の挨拶のおりには別室にお呼びになり、伝来の指輪を贈 ったりもされている。

河原敏明『良子皇太后――美智子皇后のお姑さまが歩んだ道』文藝春秋、1993

香淳皇后のお心の内とは反して、次第に国民の中に香淳皇后による美智子さまいじめ、という構図ができあがっていった。平成の時代、美智子さまはシンデレラのように“苦難に耐え忍ぶ悲哀の皇后”としてのイメージを確立した。

「いわゆる“美智子さま失声症”事件の折、ある宮内庁幹部が『いまや皇室は女帝だよ』と記者に激白したというエピソードが残っています。香淳皇后も、自己主張をためらわない美智子さまを諌めようと奮闘された面があったのかもしれません。

雅子さまは美智子さまのように、宮内庁を通じて報道機関に抗議なさるということもなさらず、慎み深く長年の苦難を耐えてこられました。その点で、香淳皇后と雅子さまのお人柄は通じる部分があるように感じます。長らく雅子さまは香淳皇后の例祭に参列されていませんが、これにも美智子さまからの何らかのプレッシャーがあったように思えてなりません」(小内氏)

即位から1年半が経過し、順調に宮中祭祀やご公務に復帰されてきた雅子さま。例祭への復帰が叶った今年は、“女帝”からの脱却という大きな節目となった。

3件のコメント

昭和天皇御夫妻は、威厳や風格がお有りなのに、親しみ易さ.穏やかさが内から滲み出ていらっしゃいます。今も、今上御夫妻とともに 国民から敬愛されている理由はその辺にあるのでしょうか。

>雅子さまは美智子さまのように、宮内庁を通じて報道機関に抗議なさるということもなさらず、慎み深く長年の苦難を耐えてこられました。
>その点で、香淳皇后と雅子さまのお人柄は通じる部分があるように感じます。

本当に そうですね。
良子皇后(香淳皇后)は、お写真でしか拝見した事がありませんが、穏やかで自然な笑顔…古き昭和のノスタルジアのような懐かしさを感じます。
皇后陛下(雅子さま)も、雰囲気がよく似ていらっしゃって、ほんわか暖かい感じ。

後に民間から入内したお2人は、女優魂?しおらしさを演じる不自然さや不気味さを感じてしまいます。

2020年6月16日、武蔵野東陵で行われた「香淳皇后二十年式年祭山陵に奉幣の儀」には、秋篠宮家の長女・眞子さまと次女・佳子さまが皇族を代表して参拝されました。

そのNewsには「血の繋がらない2人が行ってどうする」「武蔵野陵を瀆すな」というコメントが寄せられていましたが、最近の皇室の惨状……武蔵野東陵の下で良子皇后もお嘆きだと思います。
(お力が有れば、処罰を❗️)

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>例祭への復帰が叶った今年は、“女帝”からの脱却という大きな節目となった。

長く陰湿かつ執拗な嫌がらせ・苛め、よくぞ耐え抜いてくださいました。
長く冷たい冬を越した球根は、春になると美しく花を咲かせる…の通り、平成とは真逆の清らかな皇室になりました。

YouTubeを視ていたら、昭和回顧録??で昭和天皇のエピソードがありました。

戦後、香淳皇后は昭和天皇と共に皇居にとどまり、「お文庫」と呼ばれる防空施設で暮らし、食糧不足を補うため、皇居内での野菜作りや養鶏も手伝われたということ。

黴臭い古くて暗い防空施設の映像に驚きました。
また、底がペラペラになったスリッパ、ヨレヨレのスーツ…等、質素倹約質実剛健。昭和天皇が名君と呼ばれる所以です。

昭和天皇は、美智子さまの本質を見抜き、入内に反対されたが、時の皇太子はガラスの灰皿を投げつけて「誰が何と言おうと美智子と結婚する」と叫んだという話もききました。

礼宮の出自に付いても御存知で、皇室の尊厳性を護るために成人までは内廷皇族とお認めになったということでした。

その礼宮が連れてきた紀子さん、「川島某、不快なり」「妾でも有り得ない」のお言葉を残し、崩御される迄、2人の結婚に反対されていたのも周知のこと。

昭和天皇崩御の後、美智子さんの暴挙…それも「慈愛の国母」を演じながら…。

それらも心有る方々の勇気有る告発で、白日の元に晒されています。

とおかみえみため。令和が永く続きますようにと祈っております。

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香淳皇后は非常におっとりとして、夫を立てるタイプの女性という印象。
正倉院御物「月下美人の図」に代表される天平美人そのもの。

苦労知らずのお姫様┅なのに、ミテコさんのことでずいぶん苦労された。
基督教で自信過剰のミテコさん、「姑に苛められた可哀相な嫁」のイメージで、国民から同情され共感されミッチーブームを起こしたとか…未だにそう信じている人も多い。

ところが、実の所、ミテコさんは底意地が悪く、昭和天皇崩御の後は 香淳皇后付きの侍従女官を5人に減らし、お楽しみの電話も取り上げた。
その上、香淳皇后を乗せた車椅子を押す姿を撮影させ、「呆けた義母を甲斐甲斐しく世話する優しいアテクシ」報道をさせた。
(現在、上皇職員60名、介護専門職員15名、それにIT職員、流行病いに特化した職員まで、また増やした)

浩宮さまを抱いたお若い頃の香淳皇后、昭和天皇と一緒に旅行された時の記念写真。
自然体の仲睦まじいご夫婦のお姿。

昭和天皇といえば、御所のある吹上の森は出来るだけ手を入れないようにと命じられて長く自然の森がのこされていた。
そこには、香淳皇后の手入れする150坪の薔薇園があり、素晴らしい眺めだったとのこ

香淳皇后は、ご結婚前から久邇宮邸で薔薇栽培の基本を学ばれていたそうで、その美しい薔薇は天皇の執務室や御所、宮殿に飾られたり、国賓を迎えた宴席にも飾られたりしたと聞き及んでいる。

その薔薇園とともに昭和の森を潰して、贅沢な東宮御所を建てさせたのが、ミテコさん。

国民に愛され慕われた香淳皇后、才色兼備の出来の良い嫁雅子さまをいびり倒したミテコさん。

そして、その仲間:平成四人組、いや五人組??
今や、皿婆、老害、老醜、般若、笑面孤狸…とまで呼ばれる始末。
50歳過ぎると生き様が顔形に現れる…という意味で「国民の象徴」いや「嘲笑」になったように思う。

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